慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

論文型かレポート型か、その課題の見極め(1)

 慶應通信の課題をするときに、まず気付いておくべきことは、その課題が、論文型の課題か、レポート型の課題かを見極めることだと思います。
 論文とレポートの違いは何か?とお考えになる人は多いと思います。自分の考えを示すものが論文で、示さないのがレポートだと考えている人が多いと思いますが、論文とレポートを明確に分ける基準はないと私は思っています。
 しかし、敢えて私はこの両者を分けて考えています。それは、論文は「起承転結」、レポートは「起承結」のものである、というようにです。そこで、今日は私が「起承転結」をどのようなものとして考えているかについて書きたいと思います。
 私が考える起承転結とは、このようなものです。

起…この論文・レポートがどのような事柄について書かれたものかを示す。
承…論文・レポートで扱う内容に関して、これまでどのような議論がなされてきたか(=旧情報)を示す。
転…承(=旧情報)をうけて、自分がその事柄に関してどのように考えているのかを示す(=新情報)。
結…改めて、承転の部分をざっと述べる。そして、この論文・レポートの不十分な点を述べる。

1.起
 まず「起」に関してなんですが、これは、これからどんな論文を書くのか、ということを示すところです。私はここに「はじめに」とタイトルをつけて、ざっと平均して400字前後で書いていました。ここにどのようなものを放り込んでいけばいいか、ということなんですが、ここではまず、論文・レポートの目的について書きます。

 このレポートは、16世紀から18世紀にかけての英語の劇文学の展開について概説したものである。
(近世英文学史

 一日前のレポートです。このレポートの評価はCでした。駄文ですが、初めてのレポート合格は嬉しかったです。これから私の醜態を晒していきます。
書き出しの部分は、他に、

 このレポートは、ヘーゲルが歴史における自由と必然の関係についてどのように考えたかを述べるとともに、それに対するプレハーノフの考えと比較することを目的としたものである。
(歴史哲学)

 「…することを目的としたものである。」という書きかたも、よくします。
更に、論文・レポートで触れる内容に関して、ちょこっとだけ説明を付け足します。

 歴史における「自由」とは、歴史は個々人の自由な行動によって作られるという考えである。その一方、歴史の「必然」とは、歴史は起こるべくして起こるものであるという考えである。前者は観念論者によって、後者は自然主義者によって主張されたが、どちらの議論も独断的な要素を含んでいることが認められる。しかしヘーゲルは、この問題に対して、この「自由」と「必然」は矛盾することなく両立するものであると主張した。
(歴史哲学:一部訂正)

 今日は歴史哲学の内容を入れていきたいと思います。評価はBだったと思います。
 で、次に論文の章立てを書いていきます。「章立て」とは、これから〜章で…なことを書いていきますよ。と示すものです。

 ここでは、時代区分として16世紀、17世紀、18世紀の三つの章に分け、その流れを記述したい。
(近世英文学史

 まず第一章では、歴史における「必然」と「自由」とは何かについて説明する。それを踏まえ第二章では、この二つの要素がいかにして両立するのか、ということを、ヘーゲルの『歴史哲学講義』に沿って説明を行う。
 第三章では、ヘーゲルとプレハーノフが、それぞれ歴史における「英雄」をどのようなものとして捉えたか、その両者の主張の違いについて記述を行う。「英雄」とは、革命などを主導し、これまでの政治体制を覆した人物を意味する。ヘーゲルは、この英雄を「世界精神」に操られた存在であると考えたのに対し、プレハーノフは英雄を、時代を見通す能力を持ったものと考えた。そこで以下では、こうした二人の議論について、比較を行いたい。
(歴史哲学:一部訂正)

 近世英文学史ではかなりさらっと書いたのに対して、歴史哲学ではちょい多めに文章を付け足しています。


 明日は、「承」の部分について書いていきます。