慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

社会学史1(2)

 前回紹介した『監獄の誕生』は、以下のようなことが書かれています。

『監獄の誕生―監視と処罰』は1975年に出版された。近代以前における刑罰は、権力者の威光を示すために犯罪者の肉体に対して与えられるもの(公開の場で行われる四裂き刑、烙印、鞭打ちなど)であったが、近代以降の刑罰は犯罪者を「監獄」に収容し精神を矯正させるものとなった。これは人間性を尊重した近代合理主義の成果と一般に思われているが、フーコーはこうした見方に疑問を呈する。監獄に入れられた人間は常に権力者のまなざしにより監視され、従順な身体であることを強要されている。功利主義者として知られるベンサムが最小限の監視費用で犯罪者の更生を実現するための装置として考案したのが、パノプティコン(一望監視施設)と呼ばれる刑務所である。さらに近代が生み出した軍隊、監獄、学校、工場、病院は、規則を内面化した従順な身体を造り出す装置として同一の原理に基づいていることを指摘した。本書は監獄の状況を調査し、その状況の改善を要求するフーコーの実践活動(監獄情報グループ)とも結びついていた。
wikipediaミシェル・フーコー

フーコーによれば、ヨーロッパにおける刑罰は人道的観点から身体に対する刑罰から精神に対する刑罰へと移行した。刑罰が進歩したというよりもその様式が変化し、新しい権力作用が出現したとフーコーは主張した。近代の刑罰において専門家の科学的知見が重要な役割を果たしており、犯罪者の精神鑑定を通じて人間を評価する。このような人間を対象にする学問は人間諸科学と呼ばれ、これはある規範的観点を分析に導入することで人間の狂気を規定する。つまり知識によって刑罰における権力を根拠付け、また相補的な関係を持ちながら共に作用する。これがフーコー独自の権力概念である「権力/知(Pouvoir-savoir)」である。
また、この権力をさらに解剖学的な見地から観察すれば、監獄における権力の技術には規律という形態が認められる。規律は恒常的に従順な身体を生み出す方法となる。18世紀後半の兵士たちは基本教練を通じて動作や姿勢を矯正され、また命令に服従する従順な身体を作り上げることが可能となった。つまり規律は身体の精密な管理と恒常的な拘束を可能とする権力の技術となる。
wikipedia監獄の誕生



 この『監獄の誕生』において働く近代的な権力に関して、東浩紀氏は「規律訓練型権力」という言葉を当て、それがいかなるものか、このように分かりやすく説明しています。

そしてフーコーは、このような権力は「規律訓練」の場を通じて作動すると論じた。『監獄の誕生』は、ひとつ分かりやすい例を挙げている。それは、イギリスの社会思想家、ジェレミー・ベンサムが十八世紀末に考案した特殊な監獄様式である(図)。「一望監視施設」(パノプティコン)と呼ばれるこの様式では、中心に塔が、周囲に円環状の牢獄が配置されている。牢獄は扇状の小さな独房に区分けされ、それぞれ塔に向かって窓が開かれている。塔からは独房が監視できるが、光量と角度の関係で独房からは塔の内部は見えない。つまり、囚人は、つねに監視される可能性に曝されているが、しかし現実に監視されているかどうかは分からない。看守がいようがいまいが、つねに架空の視線に怯えて暮らさねばならない。結果として、彼らは、監視の視線を徐々に内面化させていくことになる。つまり、自分で自分を監視するようになる(注3)。
そしてフーコーによれば、この「視線の内面化」こそが、規律訓練型権力の雛型をなしている。近代以前においては、監視者はつねに被監視者の前にいなくてはならなかった。権威や暴力を根拠に作動する単純な権力は、その根拠が失われればすぐに消えてしまうからだ。しかし近代では監視者は不在でもよい。というよりも不在のほうがよい。監視される対象のなかに監視の視線が内面化されたとき、そのときこそ監視はもっとも効率よく機能する。
この表現は逆説に響くかもしれないが、考えればすぐ分かることである。たとえば小学校の教室では、教師がつねに目を光らせる必要がある。しかし、中学に上がり、教師の視線を内面化した生徒は、教師が不在でも学習を続けるようになる。義務教育は、知識や技能の伝達というより、そのような視線の内面化を目的にしている。近代社会の市民は、国家に抑圧される受動的な存在ではなく、国家に奉仕するように規律訓練された能動的な存在なのだ。その規律訓練(discipline=しつけ)は、学校や工場、監獄、病院など、あらゆる場で行われている。
はてなキーワード規律訓練型権力



 しかし近年は、規律によって人を管理する規律訓練型権力は制度疲労を起こしています。現在では、これに代わる「環境管理型権力」というのが注目されています。環境管理型権力というのは、規則やまなざしではなく、工学によって人を管理する方法です。

そこで、環境管理型権力とは何かということであるが、それは、環境としてのアーキテクチャーが一種のパワーとして人問をその意図するところに沿うように動かし管理することを意味し、そしてまたそのような設備・システム(=ア一キテクチャ一)が我々を囲繞する状況でもあるのだ。このことは、設計次第で人々の行動を制御することができ、それ自身が支配の権カになってしまうことを意味する。例えば、卑近な例として、マクドナルドの硬い椅子があげられる。椅子を硬くすることにより客の回転率を高め、動きをコントロールすることができる。あるいは、監視力メラ然り。このような、人問の行動を管理・コントロールするアーキテクチャーが、上記のようなセキュリティ意識の高まりの中で急速に二一ズを増し、実際に設置も増加しているのである。さらに、こういったアーキテクチャーが、マクドナルドの椅子の例のように権力もしくはコントロールされていると感じさせない、即ち無意識化されており、その上、特に昨今はIT技術をはじめとする先端テクノロジーによって精緻化が進展し、それがセキュリティを第一の目的として機能しているのである。監視カメラの氾濫する歌舞伎町やそれによる個人照会、高速道路のNシステム、ICタグを応用したゲイテッド・コミュニティー、あるいは公共空間での大雑把なゾーニングではなく精緻化された種々のフィルタリングなどが、アーキテクチャーとして、セキュリティの為に次々と構想され構築されている。それに加えて、五十嵐太郎の指摘するところによれば、このセキュリティと同じコンテクストで、「排除」という観点からのアーキテクチャーも非常に目立つようになってきている。ゲイテッド・コミュニティーやフィルタリングといった技術も「排除」という機能を果たすが、それら以外にも「排除」の為のアーキテクチャーが顕著になってきているのである。一例として、各地にある手すりをつけたベンチ(図1・2)や、新宿駅西口の地下道に設置されている円筒を斜に切った形のオブジェ(図3)などが挙げられよう。これらは一体何を目的として設置されているのであろうか。「新宿西口」ということで既に明白であると思うが、言うまでもなくそれはホームレスの排除に他ならない。
はてなキーワード環境管理型権力



 今日のブログは殆どが切り貼りですが、フーコー規律訓練型権力をまとめた上で、現代は、それが制度疲労を起こし、環境管理型権力にシフトしていっている、とか書けば、いい点が貰えるんじゃないかなと思います。