慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

私的卒業論文対策(1)

 私が書いた卒論のタイトルは、『ケータイ小説という文芸的公共圏』です。「3ヶ月ちょいで書き上げた」とよくブログで書いていましたが、ダイアリーを見返してみると、制作期間は2ヶ月程度でした。卒業指導の回数は2回です。2回目の指導には、ほぼ完成、もしくは完成と言えるメンバーが集まってました。他の方と比べると、私のは見劣りします。でも、せっかく書いたので載せちゃいます。以下は、私の書いた卒業論文の概要です。
(ブログのタイトルを変更しました)

□ 論文概要
 「ケータイ小説」と呼ばれる小説が広く認知されつつある。ケータイ小説とは携帯電話を使って執筆・閲覧される小説であり、女子中高生を中心に支持を得ている。このケータイ小説は2005年あたりから徐々に人気を高めており、その中で特に人気のあるものは文庫化・映画化されている。
 この小説の大きな特徴は、作者が読者とのコミュニケーションを通じて小説を作るところにある。ケータイ小説の大手ポータルサイトには「魔法のiらんど」や「野いちご」などがあるが、それに登録すると、ユーザーに対してケータイ小説を公開するページが与えられる。しかし、それだけではなく、ユーザーには掲示板やブログ(日記)のスペースも与えられる。そこで行われるコミュニケーションが、ケータイ小説の内容に反映されるのである。
このケータイ小説は、かつてイギリス、ドイツ、フランスに存在した文芸批評の空間である「文芸的公共圏」とよく似ている。文芸的公共圏とは、カフェやサロンなどにおいて、市民たちが文芸作品について話し合うことで形成されるコミュニケーション空間である。そこでは、人々の日常生活における体験談が集められる。そうした体験談は、さまざまな議論を経て、小説や詩などの文芸作品へと変化してゆく。ここでの文芸作品は外部に広く公開され、読者が日常生活を送る上での参考書として機能した。ケータイ小説と文芸的公共圏は、それを通じて自らが主体性を発揮し、「本当の自分」を見つける場として、そしてコミュニケーションを介して「純粋な関係」を結ぶ場として機能したということに関して共通している。
もちろんこの二者は、時代も場所も異なるところで生まれたものであるため、その間には大きな隔たりがある。それは文芸的公共圏が直接的なコミュニケーションによって形成されるのに対して、ケータイ小説のコミュニティは携帯電話を通じて、場所や時間をこえた、間接的なコミュニケーションによって形成されることである。さらにケータイ小説は、作者の知人だけではなく、見知らぬ他者もコミュニケーションに参加することが可能である。人気のある小説はランキングや掲示板、ブログを通じて宣伝的に広まっていく。人気小説の作者の掲示板には多くのファンが集い、そこから小説を中心としたコミュニティが形成されていくのである。
 ところで、ケータイ小説が人々からの支持を集めたのは、そこにある小説の人気だけによるものではない。これには、ケータイ小説という場が持っている「仕掛け」によるところが大きい。ケータイ小説という場は、公開性とともに閉鎖性も持ち合わせている。その閉鎖性とは、自分にとって不都合な者を、自分のページから遮断する機能である。ケータイ小説のユーザー登録を行う際、メールアドレスとパスワードを登録しなくてはならない。そして、ケータイ小説を執筆・閲覧する際には、必ずこの二つを入力し、ログインをする必要がある。そのためユーザーはID番号によって管理されることになる。ケータイ小説の利用者は、設定画面において、サービスに登録していない者や掲示板で誹謗中傷を行うユーザーのアクセスを拒否することができ、そうすることによって自分のページに来させなくすることが可能なのである。そうした閉鎖性が、ユーザーに安心感をもたらし、コミュニケーションを活発なものにしているのである。
近年、小説だけに留まらず、音楽や映像など、インターネットを通じて作品を公開することが盛んである。中でもプロではなく、アマチュアの作品が目立っている。このことは、これまでの芸術・文芸作品観を大きく覆そうとしている。
 かつて、フランクフルト学派に属するドイツの思想家、テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーはアメリカの「文化産業」を批判した。彼らは、映画や音楽などの芸術・文芸作品が商品化されることで、それを消費する人々がメディアを通じて、経済的権力によって支配・画一化されてしまうのではないかと危惧したのである。
 しかし、このケータイ小説は、このような文化産業と共通点を持ちつつも、大きく異なる点を持っている。その一つ目は、それが持つ権力性は小さく、人々を支配・画一化させるようなものではないこと。二つ目は、ユーザー一人一人のコミュニケーションによって作られるものであるという点である。ケータイ小説では、人々とメディアが対極ではなく同じ位置に存在している。ポータルサイトなど、メディアの側は、より多くのユーザーを獲得するために、より良いサービスの提供に努めており、そのことがユーザーの活発な創作活動を促している。その意味で、ケータイ小説は、旧来の文化産業の持つ困難を乗り越える、芸術・文芸の一つの現われではないかと考えられる。

 いろいろ忙しい時期だったのでヴァーヴァー叫びながら書きました。正直、余裕なんてなかったです。今ならもうちょっとイカしたことが書けたのですが。