慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

起承転結を意識した論文作成(1)

 このブログで、よく「起承転結」という言葉を使いますが、今日は私が「承」と「転」をどのようなものとして捉えているかについて書きたいと思います。
 これまで、このブログでは「承」と「転」について、前者を旧情報、後者を新情報としか言ってこなかったように思います。簡単に言えば、承は自分以外の人が言ったこと、転は自分の意見のことを意味します。
 めちゃくちゃ遠回りになるんですが、社会学史1の課題を例にとって、説明します。

「クロニクル社会学」で紹介されている文献から1冊選び、その著者の観点から現代社会を分析しなさい

 これは、起承転結の必要な論文です。ここでは、現代社会をゴフマンの理論で分析します。以下は、ゴフマン理論の説明です。ゴフマンは、カナダの社会学者です。

●要点「ドラマトゥルギー
 われわれはみな、人からよく見られたい、人からよく思われたいと思っている。「私は人の目(評価)なんか気にしない」と言う人もいるだろうが、その人はそういう自分をかっこいいと思っていて、そういう自分をアピールしているのである。だから、われわれは、人からよく見られるよう、人からよく思われるよう、そのような演技(ふり)をする。
他者を観客として、その視線を意識しつつ自分の外見や行動を規制することによって、自分についての情報をコントロールして他者に提示することを、アーウィン・ゴフマンのドラマトゥルギー(日常生活への演劇的アプローチ)の用語で「自己呈示」という。あれこれと自己呈示することで、自分に対する他者の印象(イメージ)を、自分にとって望ましい内容のものに保つことを「印象管理」あるいは「印象操作」という。
 印象管理の次元は3つある。第1は、公共的なルールやマナーの次元。われわれは、電車の中や、レストランや、路上で、自分がおかしな人間ではないということを、つまり「まともな人間」であることを呈示しようとする。第2は、社会的役割(とくに職業役割)の次元。医者は腕のいい医者であることを、新入社員は仕事のできる社員であることを、主婦は家事のよくできる主婦であることを、つまり「優秀な人間」であることを呈示しようとする。第3は、個人的な人柄の次元。われわれは、他者が自分に対して好意をもってくれるように、自分が「いい人」「やさしい人」「頼れる人」「素敵な人」・・・・であることを呈示しようとする。この3つの次元は、後の次元になるほど、自分の演技性をより強く意識するだろう(そうでない自分を知っているから)。
 われわれは基本的に、他者から期待される役割を演じようとするけれども、それが現実の自分と乖離している(「役割距離」が大きい)場合、ストレスを感じる。♪自分を強くみせたり、自分をうまくみせたり、どうして僕らはこんなに苦しい生きかた選ぶの・・・・(平井堅)。
 しかし、また、われわれはわざと役割期待とは乖離した演技をして(役割距離を演出して)、その役割に没頭していなくても役割遂行ができる自分、つまり有能であるが故に余裕がある自分というものを呈示することもある(例:授業で平井堅尾崎豊の曲を流す大学教授)。
早稲田大学大久保孝治研究室『社会学基礎講義A「相互作用と暗黙の規範」講義記録(6)

 現代社会は、この「印象管理」にありふれています。例えば、こんな記事があります。米国人キャリアウーマンの印象管理と、現実との乖離です。ちなみに、ここにはのっていませんが、重要なキーワードとして、「役割期待」というものがあります。役割期待とは、相互関係の中で認知された役割に寄せられる暗黙の期待のことです。

自己実現の呪縛に苦しむ米国人女性」
 米国人女性に不幸感が強いというのは、筆者もふだんから強く感じることである。
 米国人女性に「幸せか?」「今の自分に満足しているか?」という質問をすると、ほとんど必ず「はい」という答えが返ってくる。しかし、これは本音ではない。そう答えなくてはいけない空気がこの国にはあるのだ。
 万が一「不幸です」「自分のここが嫌です」とでも答えれば、その次には「では、その問題を解決するためにどんな対策を取っていますか」という質問が控えている。
 そこで「何もしていません」などと答えれば、やれ「カウンセラーに通った方がいい」、やれ「インターネットを使ってボーイフレンドを探した方がいい」などと、問題が解決するまで周囲が放っておかない。
 つまり、米国の社会には「今の自分に満足していなくてはならない」という強迫観念があり、それがプレッシャーとなって米国人女性を不幸に追い込んでいるのだ。
 現在の米国で、女性が自分に満足することは至難の業だ。
 理想の女性像とは、頭が良く、数カ国の語学を操り、高学歴で、男性と対等に仕事をこなし、高収入で、しかも男性に媚びることはなく、けれどセクシーで、美人で、スタイル抜群で、身に着けるもののセンスがよく、毎日ジムに通って運動し、健康に気を使い、優しいけれどはっきり「ノー」と言える自己主張があり、結婚したら完璧な妻となり、子供を産んでも家事も仕事も子育ても難なくこなし・・・と、現実にはあり得ないスーパーウーマン像が押し付けられている。
 これは、女性解放運動以前の価値観と、その後の価値観が合わさり、その両方が求められるようになっているからである。しかも、彼女らの親の世代は、目まぐるしく変化した女性観に対応できず、娘たちに「女性はこうあるべきだ」、もしくは「こういう人になりなさい」というきちんとした価値観を植え付けることができなかった。
 そして皮肉なことに、職場や社会で男女平等が実現すればするほど、不幸感は増していく。社会制度的には、女性が夢を実現することへの障害がなくなったことで、「スーパーウーマンになれないのは自分の責任だ」ということになってくる。ますます自己嫌悪に陥りやすくなる状況にあるのだ。
 もちろん、米国人女性の不幸の理由はこれだけではない。しかし、友人たちを見ていると、常に他人と自分を比較し、競争し、勝った負けたの中で自分の価値を見出している印象がある。女性にとって、米国は、心の安らぎを得るのが難しい社会だと感じることが多い。
JBPress『どんどん不幸になっていく米国の女性たち

 こうした女性は、日本にもたくさんいます。そのひとつが「カツマー」です。最近は、就職活動で「家事手伝い」がだんだん少なくなってきているように思います。日本も男女同権の広まりと同時に、女性も労働市場に投げ出されるようになり、男性と肩を並べて就職活動をしないといけなくなりました。
 ちょっと長くなってきたので、次回では、米国人女性をゴフマン理論で分析するとき、「承」と「転」は何になるかを書いていきます。