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歴史哲学

 途中まで掲載していた歴史哲学のレポートを掲載します。途中で何度か文字化けしているところがあり(全てが参考文献のページ)、そこは(文字化け)としています。
 ところで、私は文献の引用の仕方に自信がありません。きっと間違っていると思います。そこで、こんなんでも合格できるんだと思って下さればと思います。

はじめに
 このレポートは、ヘーゲルが歴史における自由と必然の関係についてどのように考えたかを述べるとともに、それに対するプレハーノフの考えと比較することを目的としたものである。
 歴史における「自由」とは、歴史は個々人の自由な行動によって作られるという考えである。その一方、歴史の「必然」とは、歴史は起こるべくして起こるものであるという考えである。前者は観念論者によって、後者は自然主義者によって主張されたが、どちらの議論も独断的な要素を含んでいることが認められる。しかしヘーゲルは、この問題に対して、この「自由」と「必然」は矛盾することなく両立するものであると主張した。
 第一章では、歴史における「必然」と「自由」とは何かについて説明する。それを踏まえ第二章では、この二つの要素がいかにして両立するのか、ということを、ヘーゲルの『歴史哲学講義』に沿って説明を行う。第三章では、ヘーゲルとプレハーノフが、それぞれ歴史における「英雄」をどのようなものとして捉えたか、その両者の主張の違いについて記述を行う。「英雄」とは、革命などを主導し、これまでの政治体制を覆した人物を意味する。ヘーゲルは、この英雄を「世界精神」に操られた存在であると考えたのに対し、プレハーノフは英雄を、時代を見通す能力を持ったものと考えた。そこで以下では、こうした二人の議論について、比較を行いたい。

第一章 歴史の自由と必然とは何か
 歴史の自由と必然の関係について説明する前に、ヘーゲルが世界をどのようなものとして捉えたかについて述べておきたい。ヘーゲルは世界をこのように捉えている。「理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行する」と(ヘーゲル 1994:24)。あらゆる実在と真理が理性であり、その理性はその活動の素材を自らが作り出し、そして自らに提供する。それは無限の力を発揮するが、そうすることによって世界は「理性的に」進んでいくこととなる。
では、世界史が理性的に進むということは、一体どのようなことを意味するのか。ヘーゲルは歴史を動かす者として「世界精神」という超越的かつ普遍的な主体をたてている。この主体は「自分を意識し、自分の本性を判断し、同時に、自分にむかって自分を生みだし、本来の自分にかえっていく」ものである(ヘーゲル 1994:39)。そして世界史とは、「本来の自己を次第に知っていく過程」であると言える(ヘーゲル 1994:39)。
 この精神の実体ないし本質は自由である。「精神の全ての性質は自由なくしては存在せず、全ては自由のための手段であり、全てはひたすら自由を求め、自由を生み出」している(ヘーゲル 1994:38)。つまり、人々が隷属から解放されてゆくこと、それが、世界史が理性的に進むことを意味である。
なおヘーゲルは、ゲルマン国家の受け入れたキリスト教において初めて、人間そのものが自由となるにいたったと述べている(ヘーゲル 1994:40)。それは人々が、人間そのものが自由であり、精神の自由こそが人間のもっとも固有の本性をなすと意識していたからである。この意識は、精神の最も内面的な領域である宗教のうちに現れたが、この領域を世俗の世界に打ち立てることが、最も大きな課題、世界の共通目的とされている(ヘーゲル 1994:39-40)。
 以上を踏まえ、以下で歴史の必然と自由について説明を行いたい。歴史の必然というのは、世界史を支配する理性・世界精神が自らを知り、そうすることで自由を獲得してゆくことを意味する。その一例として、奴隷制の撤廃を挙げることができる。歴史上において奴隷制は現実にあったが、これに対して道徳哲学上では、それを廃止すべきであるという命題が当然成り立つ。
奴隷制廃止という命題は、現実に遂行されなければならない問題であるため、歴史の中に浸透してゆくこととなる。しかしそれは法令のようなものではなく道徳的規範であるため、いわば自然法として人々の道徳意識の中に現れるだけである。したがって、それは歴史の上には一挙に実現されず、長い間を掛けて、人々の意識が実現されるようになり、奴隷制が廃止されるに至るのである(神山 1967:8)。
 一方、世界史における自由とは何か。それは「欲望や利害や性格や才能から発する人間の行為」である(文字化け)。この主体は世界精神ではなく、個々人である。ヘーゲルは、この人間の行為は、「情熱」によって支えられるとした。情熱は、特殊な利害、特定の目的、利己的な意図に基づく、人間の活動力の源泉である(文字化け)。その意味するところは、性格のうちでもとくに意思にかかわる心の動き、しかも、内容が私的なことに始終するのではなく、公的な行為を目指し実現する側面をも持つような心の動きである。そうした情熱の下で英雄は、意志と性格の全精力を注ぎ込み、目的とするものを完遂させるのである(文字化け)。これが世界史における自由である。

第二章 必然と自由の両立
 歴史の持つこの必然と自由であるが、ヘーゲルはこの二つの要素は矛盾することなく両立すると説く。では、この二つはどのように融合するのであろうか。このことに関して、ヘーゲルは以下のように述べている。「いまだ前進しつつある世界史のあゆみのなかでは、歴史の究極目的が純粋な形で欲望や関心の内容となることはなく、欲望や関心において意識されることのないままに、普遍的な目的は特殊な目的のなかに入り込み、特殊な目的をとおして自己を実現するのです」(文字化け)。この「普遍」と「特殊」、それぞれ「自由」と「必然」を意味する。これは、「英雄」が世界精神の意志に従って、普遍的目的を達成することを意味する。
ヘーゲルは英雄の例としてナポレオンを挙げている。ナポレオンがヨーロッパを征服したのは、公共的なものに対する奉仕や愛国心がまったくなかったというわけではないが、それ以上に自らの征服欲によるものである。彼の行為は専らエゴイズムをもとにしたものである(ヘーゲル 1994:83)。しかし、彼が行った行為は単なる征服という行為に始終しただけではなく、彼が意図しなかったところでヨーロッパ諸国の国民国家の形成を導いている。国民国家の形成はヘーゲルによると世界精神の目的であり、歴史において必然的なことである。つまり、個人の情熱に基づいた行為が、世界精神の目的を叶えることに繋がる。それが自由と必然の融合である。歴史を主観的に見ると自由であり、そして客観的に見ると必然である。それゆえ、これらの両者は矛盾しないと考えたのである。なお、このように個人が世界精神に代わって、個人がそのことに気づかないまま目的を完遂することを、ヘーゲルは「理性の狡知」と呼んでいる。

第三章 ヘーゲルとプレハーノフ
 以上で歴史の必然と自由の両立について述べた上で、ここでヘーゲルとプレハーノフ(G. W. Plechanov)の議論の違いについて述べたい。プレハーノフはヘーゲルよりも76年後に生まれた、ロシアのマルクス主義者である。ヘーゲルマルクスの思想に大きな影響を与えた人物の一人であるが、プレハーノフはそのマルクスの思想をロシアに伝えた人物である。
 歴史哲学において、プレハーノフとヘーゲルは、英雄が歴史を作るという点で共通している。しかし、歴史を作るにおいて、ヘーゲルは英雄の資質に着目しているのに対し、プレハーノフは、英雄が英雄でありえた社会関係に着目している。
 ヘーゲルは、英雄は理性の傀儡、つまり理性は英雄を、自己の目的を完遂するための道具として見ていたと考えられる。理性は歴史づくりにおいてひとりの主導的人物(英雄)を選んで彼のエゴイズムを利用してそれに己の目的を遂げるように仕組む。それゆえ、英雄は理性にだまされて動く「事務員」に過ぎないのである。
それに対してプレハーノフは、英雄が英雄となりえたのは、もちろん資質もあるが、それよりも社会的背景に原因があると考える。英雄とは別に社会関係というものが存在し、それが英雄を生み出すという。社会関係は、生産力と生産関係に基づいたものである、歴史は生産関係によって決まる。そして、その生産関係に大きな影響を与えるのが英雄なのである。
 また、プレハーノフの英雄は、ヘーゲルの英雄のように、世界精神に操られる存在ではない。再びナポレオンを例に取るが、ヘーゲルは世界精神が英雄としてナポレオンを選び動かしたと考えている。しかしプレハーノフはナポレオンを、客観的な必然性を見通す力の備わっている人物だと評価する。生産関係の変化自体には一定の決まった論理があり、歴史は客観的に必然であると考えられる。「その生産関係は、ある決まった方向に進むことが不可避であるとすれば、しかもその方向に沿ってでなければ自ら英雄たりえないとすれば、それを見通す以外にはない」。つまり、ここでそうした生産関係を見抜ける人物が英雄なのである。そこでナポレオンは、客観的な必然性を見通す力が備わっており、時代の進むべき方向に従って行動を起こした。それゆえ、彼は英雄となりえた、とプレハーノフは述べている。資質のほかに社会関係に着目した点、それがプレハーノフの特徴なのである。

さいごに
 以上において、ヘーゲル歴史観とプレハーノフとの比較を行った。以上をまとめると、ヘーゲルは歴史における自由と必然は両立すると述べる。人を超えた主体である「世界精神」が実際の人物の中から「英雄」を選ぶ。英雄はエゴイズム的行為により自らの目的を完遂するが(歴史の自由)、それは世界精神の目的と合致しており、精神における自由をもたらす(歴史の必然)。また、ヘーゲルとプレハーノフの違いについては、ヘーゲルが英雄の資質に着目したのに対し、プレハーノフは社会関係に着目した。英雄が英雄でありえたのは、彼が社会関係、つまり生産関係がどのような方向に動くかということを見極めていたからである、というのがプレハーノフの論点である。

参考文献
神山四郎(1967)『歴史哲学』慶應義塾大学出版会株式会社
ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(木原正雄訳)(1958)『歴史における個人の役割』岩波文庫
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル長谷川宏訳)(1994)『歴史哲学講義(上)』岩波文庫