慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

西洋哲学史2

 西洋哲学史2は3単位がもらえるおすすめ科目です。歴史哲学とセットで書き進めるといいでしょう。もちろん、レポートで選ぶ人物はヘーゲルです。一言で言うと、「弁証法」の人です。ヘーゲルを読むにあたって読んでおくべき文献は、先述した倫理の参考書と、歴史哲学のテキストと、『新しいヘーゲル』(長谷川宏講談社現代新書)です。

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

新しいヘーゲル (講談社現代新書)

 この文献は、早わかり本として重宝します。
 逆に、早分かり本みたいな感じの体裁で、読んでみてかなり難しかった本は、↓です。
ヘーゲルを学ぶ人のために

ヘーゲルを学ぶ人のために

 この本は上級者向けです。きちんと内容を読んでから買ったほうがよかったなと思いました。


 西洋哲学史2ですが、私はこんな感じで書きました。評価はAでした。

はじめに
世界を代表する哲学者の一人として我々はヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)を挙げることができる。彼が扱ったテーマは幅広いが、その中でも歴史哲学に関する業績は非常に大きい。その中に現れている彼の哲学の論理には「弁証法」と呼ばれるものがあるが、これは今もなお論じられ続けているテーマである。
 そこで、このレポートでは、彼が真理をどのようなものとして捉えたかについて、そして真理が人間と世界との関わりの中でどのような機能を果たすかということについて、彼の歴史哲学の観点から考察を行いたい。そのためにまず、第1章では彼の哲学の論理である弁証法の原理について説明する。続いて第2章では、社会や歴史において、どのように弁証法が現れているのかについて述べる。第3章では以上を踏まえ、弁証法において真理がどのような役割を果たすのかということについて説明したい。

第1章 弁証法とは何か
 ヘーゲルが真理をどのようなものとして捉えたかという本題に進む前に、この章ではヘーゲルの哲学を最も特徴付ける弁証法について説明を行いたい。というのも、弁証法という思想の中に真理のあり様やその働きが現れているからである。では、弁証法とは一体いかなる思想なのであろうか。
ヘーゲルによると、この世のあらゆるものは運動し、低次なものからより高次なものへと発展していくという。その例として彼は社会や歴史などを取り上げて論じているが、その発展には「正」「反」「合」という三つの段階が存在しており、その段階を経て起こる発展や進歩を弁証法という。
その三つの段階のうち、その第一段階は「正」であり、「命題(テーゼ)」とも呼ばれる。これは、ある物事が安定している状態のことを指す。しかしこの「正」の状態は安定してはいるものの、内部に矛盾を含んでおり、それがまだ表面化していない状態である。続いて第二段階は「反」であり、「反命題(アンチテーゼ)」とも呼ばれる。これは「正」の状態の中に存在していた矛盾が増大し、表面化した状態を指す。この状態の下では、これまでの安定が揺らぎ、「正」であることが否定される。そして「正」と「反」の状態がせめぎあっている。その結果革新が起き、両者の間に存在していた矛盾が克服されるが、この状態をヘーゲルは「止揚アウフヘーベン)」と呼ぶ。このときの、前段階の「正」と「反」は否定され、この両者を乗り越えた新しい段階(第三段階)に移った状態を「合」または「総合命題(ジンテーゼ)」と言う。なお、このとき前二者はともに否定されているものの、そのすべての要素が否定されているわけではなく、「合」に至っても前段階の要素は部分的に保有されている。このことから、自らの矛盾を元にして、あらゆるものは発展していくとヘーゲルは考えた。

第2章 社会、歴史と弁証法
 以上を踏まえ、この章ではどのような形で社会や歴史が進歩していくとヘーゲルは考えたのかを説明したい。ヘーゲルは人間、歴史、社会の本質を精神であると考えた。精神は人間の行動、歴史、社会の背景に存在し、それを支配するものであると彼は捉えた。そしてこの精神は自由を本質としており、精神は弁証法を通じて自らの自由を実現しようとするものである。
 その精神のうち、ヘーゲルは世界史の本質として世界精神が存在していると考えた。この世界精神は世界史の本質かつ主体である。世界精神はこの歴史の中で、様々な民族や歴史上の英雄を操ることで、自らの目的である自由を達成しようとするものである。
 神山四郎の要約によると、ヘーゲルは以下の形で世界精神は最初に民俗の精神の中に現れるとしている。民族は他の民族との戦いの中で、主体性を持つようになってくる。その結果、民族精神が彼らの内に生まれ、多様な文化を生み、そして自らの国家を作り上げていく。これが弁証法の第一段階である。しかし、国民国家が成立すると本質と現実の緊張が解けて、その民族精神は活動をやめ、内政的思索的になる。その結果、民族と個人は分裂し始め、民族生活は内部から崩壊してしまう。これが第二段階である。だが、思惟的になることは、特殊な民族的精神を否定することになるが、それは民族性の絶滅を意味するものではない。過ぎ去った民族的文化を普遍的な思惟の形に作り上げて、もっと豊富な内容を持つ民族精神として歴史の上に再び登場するのである(神山1967:77-8)。
 また世界精神は歴史上の英雄を道具として利用し、自由という自らの目的を果たそうと試みる。ヘーゲルが英雄と考えたのは、ナポレオンである。彼はナポレオンを、社会を近代化させるとともに、ヨーロッパ世界を自由へと導いた立役者であるとした。ナポレオンの侵略は、もっぱら彼の征服欲によるものである。しかしヘーゲルによると、ナポレオンは世界精神に操られた存在である。ナポレオンは自らが制定したフランス民法典を占拠した周辺各国に強いた。その結果、侵略された各国は近代化に成功したのである。ヘーゲルはそのことによって、これまで自由が与えられていたのが皇帝一人であったが、多くの人々、例えば農民たちが自由を享受することになったと述べている(ヘーゲル 1994)。こうした世界精神の働きをヘーゲルは「理性の狡知」と呼んでいる。では、その中で「真理」はどのように機能したのであろうか。

第3章 歴史における真理の働き
 さて、ここで人間と世界との関わりで真理がどのような機能を果たしたかについて述べたい。真理とは、弁証法という運動の原動力である。長谷川宏によると、この弁証法には「西洋ふうの対話」と大きく関係しているという。西洋ふうの対話とは、個人と個人が対立し、その間にある意見の食い違いを明らかにしていき、そのどちらが理にかなっているか思索を深めることである(長谷川 1997:30-1)。この対話はプラトンの対話篇に示されているソクラテスの「問答法(ディアロゴス)」がその一例である。問答法とはソクラテスが議論に用いた手法である。彼は他者に対して自分の教えを説得するようなことはせず、他者に刺激を与え、その他者が持っている知識を引き出す。そして、その知識と自らの知識をすり合わせ、納得に到るという議論法である。ソクラテスは、問答は真理を生み出す手段であるとして、自らはその問答法を助産術(マイエウティケー)と呼んだ。
一方、人間にとって弁証法は「絶対的な知(絶対知)」に到るための運動として認識される。長谷川は、絶対知とは、知が自己と世界の間を自在に、伸びやかに行きかう境地をいう言葉であると説明している。「自分の感情や感覚にとらわれず、生活上の利害や他人の思惑や時代の志向や時代の嗜好や世の常識に引きずられず、様々な権威や権力の圧迫にも屈することなく、冷静に、客観的に、現実の総体を捉え、知ること。絶対知とはその精神である」(長谷川 1997: 50-1)。長谷川によるこの議論は、『精神現象学』におけるヘーゲルの以下の発言を解釈したものである。「精神がその完全無欠な内容を、精神自身が形を取ったものだと自覚し、こうして、概念を実現するとともに、実現されたものをあくまで概念として捉えるとき、それこそが精神の最終形態たる絶対知である。絶対知とは、自己を精神の形態として知る精神であり、概念的に思考する知である」(長谷川 1997:51)。
精神の本質は自由である。そのため、絶対知を獲得することによって人間は自由の獲得が可能となる。人間が絶対知を獲得する過程として、ヘーゲルは社会の発展を弁証法で示している。彼は人間の社会を「家族(正)」「市民社会(反)」「国家(合)」の三つの段階を経て発展していくと説いた。ここでの家族とは、自然的な愛情で結ばれた家族を中心とする共同体を指す。この家族という共同体は、主にギリシャ時代の家族をヘーゲルは想定したが、基本的に親から子へと職業が受け継がれていく、家族を生産構造のユニットとしたものであった。しかし都市化が進むにつれ、子供は親元から離れ、個人として社会を形成するようになる。この段階が市民社会である。この市民社会の段階では、個人個人は平等かつ自由な主体として表れる。彼らは自らの権利を声高に叫び、そのことによって他者と衝突を繰り返す。そのことから社会は混乱し、不安定になる。また資本主義の台頭によって、貧富の差は拡大する。そこで両者の止揚の結果、国家が誕生する。国家の下では、個人の利益と共同体の利益の矛盾が克服され、また国家によって定められた責任を果たすことによって真なる自由を獲得するのである。ヘーゲルは自由な精神が客観的な制度・組織として具体化されたものを「人倫」と呼ぶが、この国家こそが人倫の最も理想的な形であると考えたのである。以上のことから、人間が絶対知を獲得するにつれて、社会のあり方が「家族」から「市民社会」を経て「国家」へと変容していったと言えるだろう。


おわりに
以上において、ヘーゲルが真理をどのようなものと考えたのかを明らかにしてきた。ヘーゲルは真理を、低次なものから高次なものへと発展するための力、つまり弁証法のための原動力であると考えた。世界精神は自らの理性を歴史において表し、自らの本質である自由を達成しようとしてきた。一方人間はその活動を、真理つまり絶対知の獲得であると認識し、そのことによって家族と市民社会止揚である国家の建設を達成したのである。だが、ヘーゲルの議論には限界が存在する。それは彼が国家を人倫の最終形態と捉えたことである。現在では、権力は次第に国から国際連合欧州連合など国家を超えた諸団体へと移りつつある。といっても、ヘーゲルの議論が完全に価値を失ったというわけではないが、真理について考察する上で、このような超国家的な力を考慮にいれる必要はあるであろう。


□参考文献
神山四郎『歴史哲学』慶應義塾大学出版社株式会社、1967
長谷川宏『新しいヘーゲル講談社現代新書、1997
ヘーゲル,ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリヒ(長谷川宏訳)『歴史哲学講義(上)』岩波文庫、1994