慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

教育学(2)

 私は教育学のレポートで、デューイを取り上げて書きました。でも、よくよく考えてみると、ルソー『エミール』について書いたほうが書きやすいのではないか、と思うようになりました。
 実際、『エミール』の分量はデューイの『経験と教育』よりも厚いです。『エミール』全巻併せて『経験と教育』のおよそ8倍くらいありそうな感じです。でも、人間観、知識観、教育観を持っていたかに関しては、ルソーの方が分かりやすいのです。『経験と教育』からデューイの人間観を明らかにするのは、ちょっと難しいかなと思います。
 では、ルソーはどのような人間観、知識観、教育観を持っていたのか。このことに関して、以下でちょこちょこっと書いていきたいと思います。
 ルソーの人間観は、彼のこの言葉に明確に現れています。「子どもは小さな大人ではない。感性的な存在から悟性的存在、そして理性的な存在へ自発的に発達する存在である」。つまり、子供と大人の間には断絶があり、子供と大人を切り離して考える必要がある、と彼は考えました。子供には子供時代という固有の世界が存在するのです。(しかし、今ではこうした考えが一般的ですが、最近子供と大人の境界が再び曖昧なものになりつつある感じがします)。そして、その上でルソーは子供を、発達する権利を持った主体であると位置づけました。
 次に知識観ですが、ルソーはこの知識に関してよい知識と悪い知識がある、と考えていました。「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手の中では悪になる」。つまり、知識が具現化したものである文化や社会には矛盾・不合理を孕んでいます。つまり、ルソーの時代の社会・文化は誤った知識によって作られたものだったのです。
 では、こうした誤った知識を身に付けさせないためには、一体どのような教育を施せばよいのでしょうか。このことに関して彼はこのように述べています。「知識を与える前に、その道具である諸器官を完成させよ。感覚器官の訓練によって理性を準備する教育を消極教育と呼ぶ」。つまり、知識をいきなり与えるのではなく、感覚器官=土台を固めておく必要があると述べました。
 このようにルソーが述べたのは、その時代の社会が誤ったものだと彼が判断したためですが、当時のフランスは絶対王政下であり、数少ない貴族と聖職者が大衆を支配していた時代です。職業も世襲制で、職業選択の自由はありませんでした。ルソーはこうした連鎖を食い止めるものが、教育であると考えました。これは、以下の言葉に表れています。「自然の秩序においては、人間は皆平等であって身分など関係がない。従って人はまず人間にならなければならない。生きること、活動することが大切なのだ。」そして彼は、教育こそが人間を自由にすると述べています。自由こそが人間のあるべき姿なのです。


 以上がルソーの人間観、知識観、教育観のおおまかな概要です。『エミール』は分厚いため、とっつきにくいかもしれません。しかし、チャレンジしてみる価値はあると思います。頑張ってください。