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教育学(3)

 自分が書いたレポートを再掲載します。

教育学

はじめに
 現代の教育思想に大きな影響を与えた人物のひとりとして、我々はジョン・デューイを挙げることができる。彼が教育において果たした功績は非常に大きく、『学校と社会』を始めとし、『民主主義と教育』や『経験と教育』など、多くの著作を世に残している。
このレポートは彼の著作である『経験と教育』から、デューイがどのような人間観、知識観、教育論を持っていたのかについて概説することを目的としている。彼は個人の経験に基づいた教育を重視し、それが民主主義を達成しうるものであると主張する。そして、そのためには伝統主義とは異なった、新しい教育のあり方の模索が必要とされる。では、その教育はどのような性質を持っているのだろうか。ここで考察していきたい。

第一章 デューイの人間観
 まず、デューイがどのような人間観を持っていたかというところから議論を始めたい。彼は人間を、常に周囲の環境に合わせて変化し、それによって成長していくものとしたと私は考える。人間は、自分が置かれている環境を察知・理解することで、それに適応したり、もしくは周囲の環境を変化させたりする。それが人間の特徴である(デューイ 2004,pp.55-6)。そこでデューイは「経験」が重要な役割を果たすと考えた。
 デューイによると、この経験は大きな二つの性質で構成されている。それは「連続性」と「相互行為」である。連続性とは、人間は連続的に経験を得ることで、そのことによって絶えず自分自身が変化することを意味する。自らが獲得したある経験は、今後獲得すると考えられる経験と容易に結びつく。たとえば学問や仕事に関する知的な経験を積めば、その経験は更に知的な経験に結びつく可能性を持っている。逆に強盗のように悪事だとされる経験については、それが更に悪い経験につながりうる(デューイ 2004,pp.49-53)。
 次に相互行為であるが、それはその名のとおり、人間は環境と相互的に働きあうことで経験を獲得することを意味する。逆に言えば、環境なくして経験は生まれない。どうすれば環境に適応できるか、もしくは環境をどのように変えると、自分がそれに適応できるようになるのか。その「とりひき」から経験は生まれるのである(デューイ 2004,pp.61-4)。
 ところでこの二つの要素であるが、それらは分離しているのではなく、常に関わりあって存在している。経験は連続性の原理に従って継承されるが、環境は、その個人が一つの状況から他の状況に移り行く際に拡張したり収縮したりする。そこで、その個人は、自分が生きているのは別の世界ではなく、同じ世界の、これまでと異なった部分・側面で生きていると気づく。そこでは、かつて経験したものが、それに続く現在の状況を理解し、効果的に処理する道具となるのである(デューイ 2004,pp.64-6)。そのような理由で、人間は新しい環境に適応することができるのである。

第二章 デューイの知識観
 次にデューイの持つ知識観について考察したい。先ほど私は経験の連続性について説明したが、知識はこの連続性の中において、今まで経験したことを以後の経験につなげる機能を持つ。しかし、全ての経験と知識が必ずしも教育に適するものであるとは限らない。教育にふさわしくない経験も存在する。そこでデューイは教師に、今後の成長に繋がるような経験を選別して生徒に与え、そうすることで知識を身につけさせることが教育の場において求められているのである(デューイ 2004,pp.50-7)。
 では、そのためにどのような教育がふさわしいのだろうか。『経験と教育』においてデューイは伝統主義的教育(旧教育)と進歩主義的教育(新教育)を比較している。そこで彼は前者を「押し付けによる教育」であると批判し、後者を支持している。旧教育の批判されるべき点として、生徒に従順であることを強要させる点、そして生徒の能力を無視して、大人の行為基準と教材と方法を押し付ける点を彼は挙げる。授業において大人が与える知識と子供の能力の間には大きなギャップがあり、それは生徒が所有している経験を越えている。上からものを教え込むことは生徒の個性の表現と育成、自由な活動を阻止するのである。
 一方の新教育であるが、簡単に説明すると、それは生徒の自由や興味、関心を重視する教育であると言える。これと旧教育との大きな違いは、旧教育では教育者が子供の経験を越える知識を与えようとするのに対して、新教育では生活経験に焦点を当て、そこから生まれた経験を発展させて成長に結びつけていこうと考えるところにある。教師による経験の選別が必要となるのである。
 しかし、これは非常に困難な問題である。というのも伝統的な学校では首尾一貫した教育の哲学を持たずにやってこられた。既存の伝統や制度化された習慣が型を作り、それに従うことで授業が成り立ったためである。だが新教育は既存の教育法に信頼を置かない。そのため経験に関する教育の、哲学の理念が必要となったのである。しかしデューイは、これにはまだ一貫した理念は存在しておらず、それが行き当たりばったりの教育を生むと指摘した。そのため、よりよい経験を与えるためには、どのような指導・教材がよいかを常に考えることが必要なのである(デューイ 2004,pp.25-8)。

第三章 デューイの教育論
 教育において我々が共通して望むことは、それが生徒を「善く」することである。ここでは、その「善さ」とは何なのか、そして生徒を「善く」するためにはどのようなことが必要かということについて考察したい。
 まず、デューイの意味する「善さ」は、ベンサム功利主義的思想の「快い」とは異なるものであるということを指摘したい。それは、デューイの以下の言葉から理解できる。「経験が生徒に不快感を与えず、むしろ生徒の活動を鼓舞するものであるとしても、その経験が未来により望ましい経験をもたらすことができるよう促すためには、直接的な快適さをはるかに越えた種類の経験が求められることになる。このような質的経験を整えることこそ、教育者に課せられた仕事なのである」(デューイ 2004,p.34)。教育学者の村井実は「善い」を「快い」と同質のものとすることは誤りだとしているが(村井 1984,pp.67-9)、自然主義者として知られているデューイは、「善い」と「快い」の違いを弁えていたのである。「快さ」がベースとして教育が行われた場合、それはどのようなものになるのか。村井は以下のように述べている。近代を代表する思想である功利主義の下では、教育はこれまでの伝統や考え方を無視し、国力の増大の手段として行われた。富国強兵・殖産興業のスローガンの下、先進国と呼ばれる国々は、自国の利潤を追求するため、他国の侵略・搾取を行い、それを正当化した。また、国内では人種や性別、職業や身分で差別が行われるようになった。それは、人々が自分自身の利益を最大限にしようとしたためである(村井 1984,pp.12-4)。
しかし、大切なのは富を独占することではなく利害を調整することである。そこでデューイは学校生活において、生徒を机に縛り付けるのではなく、生徒みんなで教室のルールを決め、自主的に活動を行えるようにするのが好ましいと考えた。彼はそれが民主主義につながるとしたが、その要素が、新教育には備わっている。クラスのメンバー全員は自分たちの役割を認識し、それに従って行動しなくてはならない。
さらに、新教育の下では教師の役割も大きく異なる。旧教育においての教師の役割は、生徒を管理することであるが、新教育では、生徒に教室における貢献の機会を与えることであり、個々の生徒の活動・知識において責任を持つことである。以上のようにデューイは、生徒たちの共同的生活に重点を置いた。教室内での決まりを尊重できること、共同体で活動できるような社交性を持つこと、それが彼にとって「善い」ことなのである。

4 まとめ
 以上において、デューイの人間観、知識観、教育論について述べてきた。彼は、人間を周囲の環境と相互に影響を与え合う有機的存在とし、それには経験が大きな役割を果たすとした。その上で彼は、生徒の成長の阻害する旧教育ではなく、生徒の経験を次の可能性につなげてゆく新教育の学習法を支持した。この新教育は民主主義の理念と通じたものであり、そこでは「快さ」とは異なる、自らが共同体の一員として自覚する「善さ」が大切であるとされる。 
 以上のようにデューイの思想は教育において大きな貢献を与えてきた。しかしその一方で「這い回る経験主義」という不名誉な評価も為されてきた。それは、活動や生徒の興味関心を重視しすぎるあまり、学問知識の体系的な獲得が困難になると考えられたためである。そこでデューイは『経験と教育』において、向こう見ずな新教育を行う教育者を諌め、そして、経験を拡散させ、混沌としたものにしないようにするために「知識の組織化」の重要性を説いている(デューイ 2004,p.134)。
 体系的に知識を獲得することは非常に重要である。現在行われている「ゆとり教育」はデューイの思想による影響が大きいが、それは知識のインプット一辺倒を避け、そのアウトプットに重点が置かれている。そのため、発表の機会として総合学習の時間が設けられている。発表を行うには、まず言語能力という土台を築いた上で、グラフなどの数を扱う能力、社会・理科の知識をバランスよく、つまり体系的に身に付けることが必要であると私は考える。これらのうちのいずれかが欠けていると、それを上手に行うことはできない。
しかし教育現場では、アウトプットの機会は設けられたものの、授業時間や内容の削減により、アウトプットに至るまでの充分な知識や経験を生徒に与えることができていないのではないかと私は考えている。今後の教育においてその点について見直す必要があるだろう。


参考文献
杉浦宏(1962)『デューイ教育思想の研究』、刀江書院
田浦武雄(1984)『デューイとその時代』、玉川大学出版部・教育の発見双書
デューイ、ジョン(2004)『経験と教育』、講談社学術文庫
村井実(1978)『「善さ」の構造』、講談社学術文庫