慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

英語学概論(1)

 佛教大学は、ひとつのレポートに課される文字数は3,000程度でした。文字数が少ない分楽なのですが、書く内容をより吟味して絞っていかないといけないので、その点が難しいところです。レポートは、慶應と違って、専用のレポート用紙というものがありません。普通の白い紙です。慶應も普通のコピー氏を使わせてくれればいいのにと思います。もう両方とも卒業してしまったので、いまさら言っても無駄ですが(佛教大学は、正式には「中退」ですが)。
 英語学概論は、4単位の科目です。レポートを2つ書く必要がありますが、科目試験は1度でOKです。

「英語と日本語の文法構造または語彙構造を比較対照し、両者の違いを論ぜよ」

はじめに
 このレポートは、英語と日本語の文法構造を比較し、その違いを論じることを目的としたものである。我々は英語を日本語訳するとき、直訳すると不自然になってしまう文章に出会うことは少なくない。そのとき我々は意訳を行うが、意訳する必要が生まれるのは、英語と日本語では文法構造が異なっているためである。そこで、ここでは英語と日本語において、どのような文法構造の違いがあるのかということについて論じたい。

第1章 <HAVE言語>と<BE言語>
 まず、英語と日本語の文法構造の違いの一つとして<HAVE言語>と<BE言語>を挙げたい。英語が前者、日本語が後者であるが、これは日本語で「いる」「ある」と表現するものを、英語では「持つ」と表現するものをさす。それにはどのようなものがあるか、以下に例を示したい。
(1)英:“I have two children.”
   日:「私には二人の子供がいます。」
(2)英:“This room has two windows.”
   日:「この部屋には窓が二つあります。」(池上 2006:161)
 まずこれらの例文のうち、日本語のものに着目したい。(1)(2)の両方で「ある」「いる」という英語では‘be’に相当する、<存在>を示す言葉が用いられている。これら言葉は(2)のように用いられるが本来的である。しかし、この「ある」や「いる」は(1)のように<所有>を表す言葉として、転用され用いられている。逆に英語に着目すると、(1)(2)の両方に<所有>を意味する‘have’が用いられている。この場合(1)が本来的な‘have’の用いられ方であるが、(2)のように<存在>を意味する言葉として転用されている。
 言語学者の池上嘉彦によると、言語の歴史において、もともと<BE言語>であったものが次第に<HAVE言語>へと移行する傾向があったことが確認されている。例えばラテン語は日本語と同じ<BE言語>的な傾向を持っていたが、そこから派生したフランス語は英語と同じ<HAVE言語>的な表現が多いのである(池上 2006:165)。このことに関して池上は、こうした以降の背景として、<所有>と<存在>の間に存在する<近接>という概念に着目する。特定のもの同士が常に<近接>している状況を繰り返し見出されると、その間に特別な関係が生まれる。そして、その一つが<所有>となるのではないかと池上は推論している(池上 2006:166)
 ところで、こうした二種類の言語において、人間はどのように捉えられているのであろうか。<HAVE言語>においては、人間は<(ものを持つ)主体>として焦点が当てられ、それが顕在化されている。しかし<BE言語>においては、人間は<(あるものが存在する)場所>としか捉えられていない。そこから<HAVE言語>からは、人間が様々なものを支配下に置こうとする主体としての意識が表れていると考えられる。そのため、<HAVE言語>である英語は、日本語と比較して主語を重視する言語であると言える。

第2章 英語と日本語における主語の比較
 前章では英語と日本語を<HAVE言語>と<BE言語>を比較し、そこで英語は日本語と比べて主体としての意識が高いことを明らかにした。しかし、このような主体の意識は知覚表現にも表れている。それはどのような点であろうか、以下で見ていきたい。
(3)英:“I see several stars.”
   日:「星がいくつか見える」
(4)英:“I hear the wind.”
   日:「風の音が聞こえる。/風の音がする。」(池上 2006:162)
 以上の二例に関して、英文を直訳すると「私はいくつか星が見える。」「私は風の音を聞く。」となり日本語としてかなり不自然な形になる。この和文と英文の両方を比較したとき、英文は“I”という主語があり、そこから知覚の主体である自分自身を意識していることがわかる。一方和文は周囲のありのままの姿を捉えたものであり、そこに主体の存在を捉えることは難しい。そのため、英文では能動的、和文では受動的な語り口になるのである。このように、英語では必ず主語が存在しているのである。
 ところで、一方の日本語における主体は曖昧である。
(5)英:“An elephant has a long trunk.”
日:「象は鼻が長い。」(高田2008:268)

 この場合、述語が「長い」であるのは明確であるが、主語は「象」「鼻」のうちどちらであるかが明確ではない。この文は日本語としては成り立っているが、英語にはこのような文構造は存在しない。その理由は、英語の主語は必ず動詞と結びついていて、主語になれるのは主格の名詞や代名詞またはそれと同等の働きをするものであるからである。主語は動詞が意味する動作や作用の担い手であるか、その性質の帰属するものである。そのため、通常主語を持たない文はない。ゆえに、“An elephant has a long trunk.”と訳されるのである。
(6)英:“Someone has stolen my bag.”
   日:「鞄が盗まれた。」(高田2008:275)

 この場合「誰かが私の鞄を盗んだ」と訳すと、他人事のように受け取られてしまう。そのため「鞄が盗まれた」とした方が、訳としてふさわしい。(3)から(6)の例文を見返してみると、英語では「何が…何をした」という表現が多く、日本語は「何が…どうなっている」という状態の表現が多い。それは、“have”を含め他動詞を多用する英語と自動詞が発達している日本語の違いにあると言える。

おわりに
 以上において、英語と日本語の文法構造の違いについて説明を行った。英文和訳の際に意訳の必要が生まれるのは、英語は主語が明確であり、‘have’を含め他動詞を多用する傾向があるのに対し、日本語は主語が曖昧で、‘be’動詞などの自動詞が発達しているためである。

■ 参考文献
池上嘉彦『英語の感覚・日本語の感覚』、NHKブックス(2006)
高田治美「日英対象研究」、高田治美他編『英語学概論』、佛教大学(2008)