慶應通信! r.saitoの研究室

慶應義塾大学通信教育課程のブログです。皆さんの卒業を応援します。

社会学史1(3)

 いつも適当に、このブログを書いてます。2週間ほど前に社会学史1について書きましたが、あまりにも適当過ぎたかなと思い、改めて丁寧に書いてみたいと思います。この社会学史1は文学部でも易しい部類の科目です。ですので、学士入学で学習が立ち止まっている方は、この社会学史1から再スタートしてみてはと私は思っています。
 以下ではミシェル・フーコーに関して書いていきます。社会学史1(1)社会学史1(2)の続きです。フーコーは20世紀を代表する哲学者の一人です。彼に関して書かれた文献は、卒論に関係なくとも、一度目を通してみることをおすすめします。

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 まず、どういったことを書いていけばいいか、ということなんですけれども、彼の代表作の一つに『監獄の誕生―監視と処罰』という文献があります。フーコーはこの作品で「権力」とは、一体どのようなものかということについて考察しています。権力を簡単に説明すると、他者や自らに対して働く強制力みたいなものだと思います。そして、その権力の一番身近な例は仕事です。どれだけサボりたくても仕事はしなくちゃお給料はもらえません。「飴と鞭」という言葉がありますが、権力というのはその鞭にあたるものだと私は考えています。もう一つの例は学校です。小学校〜高校までは、どれだけ行きたくなくても、周囲の環境が行かないことを許しません。
 そこでこのフーコーは、この文献で権力が、この社会の中でどのような形で現れているかについて考えました。そして、それが「規律」という形で現れている、と結論付けました。軍隊や学校、施療院(後に会社)などで厳しい訓練が行い、そして人々に規律を身に付けさせる。そして、そこで規律を身に付けた者は、「道徳」の伴った人格者として尊敬されます。学校ならば「優等生」という言葉が当てはまるでしょう。この場合、訓練が鞭、尊敬の念が飴です。
 このような規律がいかにして身に付けられるか、ということについてフーコーは「一望監視施設(パノプティコン)」という監獄をたとえとして用いています。この建物は円環状で、その中心に監視塔があります。円周状に独房が並べられており、内側は窓が開けられた状態になっています。監視棟から独房を見ることはできますが、独房から監視塔を見ることはできません。一望監視施設では、看守が実際に監視されている、いないに関わらず、囚人は常に監視されているという視線を感じ、その視線を内面化します。そうすることによって、次第に囚人たちはそこで定められた規律を守るようになります。フーコーは、この一望監視施設のような権力が社会全体に行き渡っていると考えました。
 現代の我々も、訓練によって体にしみこんだ規律に従って生きています。電車を待つときはきちんと列になりますし、自動車を運転するときもきちんとマナーを守ります。ツタヤなどで会員カードを申し込むとき、身分証明書として免許書を差し出しますが、そのとき「ゴールド免許です」と誇らしげに言います。こうしたフーコー的な権力(=規律型権力)は、いろんなところで目にすることができます。
 ところで、栃木県立大田原高校では、毎年85キロの道のりを歩く競歩大会という行事が行われます。漫才師のU字工事の母校で、宇都宮大学東北大学早稲田大学に強い進学校です。この85キロというのは、はるな愛さんが24時間テレビで走った距離と同じです。この行事は保護者も協力する大イベントですが、そうした行事(=訓練)を経験することによって、生徒たちは「大高生」になっていきます。このことをはるなさんが知ると、「感動」とは一体何か再考を迫られることでしょう(でも私は小さい頃から24時間テレビが大好きです。)
 しかしこのフーコー的権力は、現代では次第に制度疲労を起こしています。例えば10年前ならば、インターネットのマナーを意味する「ネチケット」という言葉がありましたが、今ではそうした言葉は聞かれないようになりました。いくらマナーの向上を叫んだところで、あまり効果はないからです。でもその代わり、mixiなどのSNSは周囲との環境に壁を設けることで、マナーの定着をユーザーに喚起させることに成功しました(ただ、それはしばらくして失敗するのですが…)。
 このように、規律や訓練ではなく、工学(テクノロジー)の力で人々の行動を支配(コントロール)しようとする権力のことを「環境管理型権力」といいます。この環境管理型権力は、ネットの外でも見られます。
 これに関して、マクドナルドの座席や、新宿駅西口の座席がよく例として用いられます。マクドナルドの座席は、一般の喫茶店の座席よりも堅く作られています。そうした堅い椅子では長い間座っていられることができません。椅子を堅くすることは、客の回転率を高めることにつながります。
 一方、新宿駅西口の座席には、手すりが設けられています。それはホームレスや酔っ払いが寝っころがないようにするためです。このように、モノに工夫を加えることで、人々の行動を管理すること、それを「環境管理型権力」といいます。
 社会学史1のレポートでは、「承」にあたる部分(1600字前後)でフーコーの権力の説明を、そして「転」にあたるところ(1600字)で、フーコーの権力論が通じるところ、通じないところについて書けばいいでしょう。その際、環境管理型権力について調べる必要が出てくるかもしれませんが、そのときは社会学者の東浩紀さんの文献を参考にするといいでしょう。私は↓が一番分かりやすいと思います。
情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

社会学史1(4)

 フーコーと並んで書き易いのが、ロバート・キング・マートンです。彼は「逸脱」に関する研究で知られています。彼の逸脱論の中心をなしているのが、「ラベリング理論」と「準拠集団論」です。
 ラベリング理論というのは、個人に対してあるレッテルを貼ると、貼られた当人はそのレッテル通りに行動してしまう、という理論です。例えば髪を染めている高校生に「不良」というレッテルを貼ると、その当人は次第にそのレッテル通りに不良化していきます。これを「予言の自己成就」といいます。
 ところで近年、医者から「鬱」や「アスペルガー症候群」という診断が下されると、鬱に与えられたイメージどおりに行動する人が増えているような気がします。mixiなんかでよく見かけます。関係ないですが私は軽度の吃音をもっています。ですので、私も吃音に与えられたレッテル通りの行動をします。冬でもランニング姿で絵を描き、周囲の人におにぎりをせびります(嘘です)。ただmixiなどで「鬱」や「アスペルガー」と表明している人たちは、過去にえげつないほど辛い思いをしたことのある人が殆どだと思います。
 しかし、この世の中、全ての人間は何らかの「マイノリティ」に属していると思います。障害を持っていたり、片親だったり、在日外国人だったり。大なり小なり、一人一人が何らかの特殊な要素を持っています。ちなみに前の日記のフーコーユダヤ人で同性愛者でハゲでした。三重苦です。そして、そのマイノリティ要素が、たとえそれが微々たるものであっても、それ以外のマジョリティの部分を差し置いて、個人を特徴付けると思います。
 次に「準拠集団論」ですが、準拠集団というのは、個々人が所属している集団です。それは不良グループやオタクグループがあてはまります。例えば、私の最寄のコンビニにはよく不良がたむろしています。こうした行為は、社会規範的にはNGですが、彼らの規範では、ごくごく普通の行いです。
 また、オタクに関してですが、彼らは今、こぞって熱海に集っています。DSやiphoneを持って、何かの集団を形成しています。彼らの中には抱き枕を持参している者もいます。彼らは一体何の目的で熱海で集っているのか。その理由は、それが彼らの規範に従った行為だからです。
 このように、人々は何らかのグループに所属して生きています。そのグループは時に反社会的であったり、非社会的であったりします。しかし、こうしたグループの中にいるうちは、そうしたことはなかなか気付きません。それがマートンの「準拠集団論」です。
 といっても、最近の準拠集団は、それが反社会的・非社会的であることを理解した上で新たなアクションを起こしていることが多いです。例えば、ラッパーは不良文化の一つですが、最近は家族への感謝の言葉を歌にするラッパーが増えています。「不良」と「感謝」というギャップでいいイメージを定着させるのが狙いだと思います。また、オタクも周囲(一般)からのウケや人気を狙うために、あえてオタク的な行動をとる「オタ充」が増えています。
 マートンの逸脱論をレポートに書くときは「承(=旧情報)」にマートンの理論の概略を書き、そして「転(=新情報)」では、現代特有の逸脱行為をマートン的な視点から見ていけばOKでしょう。